よだかの学校 「子どもゼミ」を終えて
ねぇママ、YouTubeみていい?
今日はハンバーグ食べたい!
公園に行きたいよ
3人の我が子たちは日々、これがしたい、あれがしたい、と私に訴えてきて、その度に私は「1本だけならいいよ」「ごめん今日はラーメン」「公園はあとでいこうね」と自分と夫の都合を鑑みた返事をし、子どもたちは不機嫌そうな顔で(必要とあらば泣き喚いて)自分の願いを表出してくる。そのやりとりを365日、繰り返す。子どもからすると時に願いは叶い、時には理不尽な理由で叶わない。とある一般家庭のどこにでもある一コマではあるけれど、このやりとりが少し別の会話になったらどうだろう、とふと考えるときがある。
ねぇママ、お腹がすいたよ
今日は学校に行きたくない
ここで勉強してもいい?
ここで遊んでもいいですか?
こんな訴えには、どんな子どもにも「いいよ」って言ってあげたい。これは人として基本的に守られるべき最低限の自由が奪われているから? 健やかに暮らせることや、自由に勉強したり、友達と遊んだり、意見をいうことができる最低限の権利が侵害されているから? 「公園に行きたい」のを「あとでね」というのと何が違うんだろう。私の子どもに対する日常の言動は、子どもの権利を脅かしてはいないか。母の顔、地域の大人の顔、学童保育の先生の顔をしながら、その肩書きをもってして子どもに非暴力の力を振るってはないか。そう考え始めたらとたんに自分に自信がなくなってきて、そのことをちゃんと誰かと対話したいと思ったのが「よだかの学校」の子どもゼミに理由した動機だった。
もうひとつ、貧困や虐待で困っている子どもの数や事実は認識していても、そこにどうアプローチしていいのか、子どもに関する活動をしているにもかかわらず、一番困っている子どもに届いてないことへの歯痒さを持ち続けていることも、ゼミに参加した理由のひとつだ。
ゼミに参加していたのは皆さんそれぞれの形で「子ども」に関わることをしている、もしくはこれからしようと考えている方たちで、それぞれの経験や見聞、気持ちを、暖かいお茶を飲みながらゆっくり語り合った。初日は大雪でオンラインだったけれど、2回目の畑オフイスと3回目の根尾GIDSの空気は「ここは何話しても大丈夫だろうなー」という安心感からはじまった。はじめましての方も多かったけれど、子どもの権利のことで集まっているのだから思考はわりと同じ方向だよね、という前提条件があったからか。
第1回で講師をしてくださった「こどもNPO」の山田さんから、良い視点をもらった。
子どもの権利条約の一文「respect for the views of the child」
viewsは子どもの意見と訳されることが多いけれど、子どもそれぞれのviewsをどう汲み取るか、それはたしかに忘れられがちだ。言葉や態度、遊びや生活のなかのいろんな形で子どもはviewsを表しているのだけど、そこに視点を当てて対応できるかといったら、やはり見過ごしてしまったり、“大人の言い分”で対処してしまったり、組織や学校という勢力のなかで統制して見えなくしている。それを第1回に知ることができたのはとても大きくて、全ての子どものviewsがあると心に留めておくだけでも、自分が行動するときのアウトプットが違ってくる。畑オフイスでは、それぞれが第1回から感じたこと、それから経過して考えたこと実践したことを共有しあって、感じたことや何ができそうか、やってみたいことを言葉にした。
キュレーターの中原さんが自身のお子さんの語りの録音を聞かせてくださって、「 ぼくらの七日間戦争 」を彷彿とさせる子どもだけの国の話が面白かった。(こんなに語れる中原家のお嬢さんがすごいという感想はさておき)ドラえもんの世界のように、子どもが子どもたちだけで、子どもの世界を守る。そこには厳しい掟があるんだけれど、その厳しい掟って多分大人が普段子どもたちに振りかざしているルールなんだろうなぁ…。
私は娘の小学校で目撃した貼り紙のことを思い出した(写真)。「あなたたちのクラスは○回注意されました。安心安全にくらせるように心がけましょう」。……怖い。子どもたちの純粋なるviewsをねじ曲げないようにしたいと思った。図らずも、大人の影響力は強く、子どもの言葉となって現れる。
みんなで出したキーワードは、近所の子どもを集めた塾のふりしたサードプレイス、プレイパーク、移動する児童館、親を解放する、遊びにいける家、1日だがし屋、子どもユニバーサルパスポート……。どれも素敵で掘ってみたいアイデアばかりだけど私が目に留まったのはモバイル児童館。それナイスアイデア。基本的に徒歩圏内しか自由な意思で移動できない小学生たちには、こちらから出逢いに行けばいい。
こうして2回目はキーワードを紡ぎ、3回目は具体的な一歩を少し考えてみる時間となった。それぞれ、「やりたいこと」「理由」「リソースとして必要なもの」「どうやってそれを集めるか」を出し合う。具体的に考えていくなかで自分の今もつリソースとか、場所や仲間の顔が頭をめぐる。私が出したのは、今専ら自分が取り組もうとしている“子どもたちがつくるサードプレイス”のプロジェクトについて。それはさておき、他のみなさんが出したアイデアや問題提起に、ハッとすることがいくつかあった。10代女性の性と貧困の話、シングル家庭の住宅問題、帝国主義な教育委員会。これほんとにどうしたらいいんだろう?ってことを語りあって、「もしかしたら、このあたりに糸口あるのかもしれないね」「もうお手上げなんだけど、こういう立ち位置でいることならできるかも」と言葉にして自分の思考に戻していく。
私の場合はアウトリーチの部分を自分の活動のなかで“どうしても忘れないでいたい”と思っていて、こうしてそれぞれの人が抱いている課題のようなものを可視化できることで、その時間だけは堂々とアウトリーチについて迷いながらも考えているって喋っても許されるような気分になった。いつもはそんなこと、絶対に言えないのだけど。何もできてなさすぎて。他にも、「プレイパークをやりたいな」という話にたいして、進行役の小池さんが「何があれば、最初の一歩が踏み出せそうですか?」と尋ねて、彼女は「仲間」と答え、「それなら、ここからはじめたらいいですよ」というやりとりがあった。これが多分“よだかの学校”なんだろうな。
良いこと(良さそうなこと)や功績を並べなくても、迷いも不安も、ちっぽけなことも、青臭い夢も、違いも認めて語り合えるのが問いを共有するゼミ。緩やかに、小さな集落みたいなままでいいから、問いを続けられる場所であってほしいなと。そして私はまたここに戻ってくる時間を楽しみに、一歩進もうと思う。
written by 篠田花子
岐阜市、民間学童/アフタースクール 「ヒトノネ」代表