PTAの過去と未来ゼミ 記録

2023年7月15日(土) 14時-16時に開催された「PTAの過去と未来ゼミ」の記録を公開します。

目次
自己紹介 PTAへの懐疑
PTAの過去 軍国主義教育と民主化
PTAの過去ディスカッション
  官僚化してない? 分権なんてWORKしてない?
  PTAはお母さん? お父さん?
  PTAと他の地縁組織
  PTAと近代国家成立、廃仏毀釈、国家神道制
  PTAと民主主義の非西洋起源について
  PTAと社会の変化
  正解の強要
PTAの未来 新しい自治
PTAの未来ディスカッション
  地域連携、コミュニティスクールの形骸化
  自治の入口としてのPTA
  「当て職」化する地域社会
  安全と自由のトレードオフ
  労働(labor)・仕事(work)・活動(action)
  スクールカーストの再生産
  階層からネットワークへ
  PTAの非合理とケアの倫理
  「民主的手続き」でない種類の民主的実践

参加者

JO            2児の親、幼児園PTA会長、僧侶
MA          3児の親、PTA役員
NS           独身、PTA未経験、デザイナー
NA          2児の親、PTA役員未経験
KO          2児の親、PTA役員未経験 

自己紹介 PTAへの懐疑

MA
MAです。神戸町在住です。よろしくお願いします。

KO
MAさんは、よだかの学校の「プレーパークを作ろうゼミ」にちょっと参加してくださいました。地域でも神戸町のご自宅でやってるんですよね。子供が、いつでも来て家ご飯食べる会とか?

MA
全然、息子たちの友達が自由に来るだけなので。

KO
すごい!今もやってます?

MA
今もやってます。昨日も7人とか来て。
いやもう、息子が3人いるので。真ん中この小学校の友達がくると自然と集まって、またワーッと散らかって、また帰る前に集まって帰るみたいな。

KO
本当すごいことをしてるんですよ。かっこいいね。オープンなので。その地域に開かれた。

MA
神戸町で、息子3人いまして中学校と小学校2人です。
みんな地元の小学校、幼稚園行ってます。
地元の幼稚園で、もう長男が入った時点で入学・入園したらもうPTAに入るのが当たり前。そういう感じに思ってた。
何か条件的に何か(参加申し込み)を書くとか、なかったです。

小学校もそうなので、「みんな、どういう感じでPTAを運営されてるのかな?」というのはすごい興味あります。自分や息子たちが感じている学校とか幼稚園のPTAの雰囲気が、すごく殺伐してる。空気がすごいって毎年聞いてたので、「そんな面白くないことをする意味がない」って、やっぱり直感的に思った。

やるのであれば楽しんでやる方がいいんじゃない? みたいなところと、やらなければ、やらない方向で何かを考える時代になってきてるんじゃないかな? このイヤイヤ的な空気で、ハズレ券を引いたみたいな感じで続けるの? いや本当に、誰も立候補しないかったら、もうクジ引きだったんですよ。

幼稚園のときは、「何かちょっと違うね」って感じました。
自分たちの子供が楽しく通ってる園であれば、なおさら保護者も楽しく居たいという気持ちがある。
で、私は幼稚園ときにママのお母さんたちの友達に「ちょっと役員、次年度一緒にやらない?」っていう声掛けで、みんな何人か集まって、幼稚園にも最後の年、回答させてもらった。

もう「楽しく、とにかくやろう」っていう気持ちで、やったんです。
小学校もだんだん上がっていったら、残り、選ばれてない方が、学級委員とかになっていく。
長男が、五、六年生の時に、やってない親の中から選ばれる。この感じは、もう最終的な感じでっていうのは・・・ 「私やってないんや」と思いました。
小学校の役員みたいな感じです。人数はそこそこいる小学校なんです。

けど、もう学級委員に当たったら、それイコール、「くじ引いたら長をやる」ってことだった。
本部役員っていう。さらに中心となる役員になると、そこに入るということ。で、1年準備が。長男が6年に入って、今、本部役員3年目やってるんです。
けど、今、現副会長のうちで。何か地元の小学校を本部役員を3年連続すると、中学校の役員を免除するみたいな。
何かそういうのがあるんですよ。
何だろうこれ? みたいな。繰り返そう。繰り返されるみたいな。みんなそれに乗っかってるから、それに乗っかるみたいな感じです。

中学校は中学校で考えたらいいけど、とりあえず小学校は1年目でました。なので、やろかって感じ。
今3年目なんですけど、なんかね、その空気がちょっと私も読み取れてなくて。

JO
コミュニティ連合ってこと?

MA
いや違います。
きついかもしれんもないし、その後も、正直ないんだけど、いつまで続くのこの時代?みたいな。何かやっぱり、ちょっと改革じゃないけど、嫌がる人もいるっていうことであれば・・・

NS
NSです。大垣在住で、普段デザイン業とかしてます。独身で、PTAとは全く関係ない状態なんです。でも周りからPTAの話をよく聞きます。だから現状、PTAとは全く無縁なんですけど、何が起きてるのかをちょっと聞いてみようと思って参加しました。

NA
私はNAです。一応、よだかの学校やっています。今回は、どちらかというと当事者で、今、子供が中1と小1なんですよ。今までPTAの重い役は1回もやってないんすけど、うちは、この地域なんで、多分、役をやらないといけないだろうな・・・。ちょうど、連合の役のときに、僕PTA会長とか依頼ありそうな気配がします。

KO
連合って何ですか? 市連とか?

JO
市連とか。そのときにその役員も持ち回りまして、いつここに当番が来る。NAさん年代で、根尾に来るというのがわかった。
2年後だけど、連合の役員を何年やってなきゃいけないみたいな。
市連、県連もですけど。それもまた面倒くさい。よくわかん。

NA
っていう状況があって。ちょうど今、今週来週、この学校でアンケートやってるんすよね。「PTAどうするか問題」のアンケートを今やってて、みんな書いてるんです。来週か今週か、もう直近、後10日以内ぐらいに学校で会合あるんすけど・・・

ちょっと事前に勉強ぐらいしたいな程度の感覚です。色んな人に声をかけたんですけど、やっぱりなんか、なかなか来てくれない。
でもね、みんな、めちゃくちゃ気にしてるんですよ、この話題。
すっげえ気にしてる。もう生活に直結で。もうちょっと、だから、嫌だから、勉強会ぐらいやろうって思ったんですけど。

JO
ちょっと着地のイメージは僕の中にある。それをみんなにちょっとずつ広げようとは思って。そういう思いでやってるんです。着地点のイメージなく言うと、なんかご指摘のようになっちゃうので。

着地点のイメージを出したんですよ。それをチラチラっと。みんな、反対はしないで。「そういう方向で行くね」みたいなことを、今、外堀から一生懸命埋めてる。
着地点っていうのは、もう「PTAそのものをなくしてしまう」 もう、ボランティアで行っちゃうっていうこと。「地域で、みんなで助けよう」みたいな方向に持ってこうという話。

それを今持っている。
その理由は、例えば連合の研修会がある。東濃とか行かなきゃいけないですよ。岐阜市とか大垣市とか、神戸町の方とかだったら、電車乗れるじゃないすか?

電車で行くことも不可能じゃないすけど、ここからだと、1回、樽見鉄道で大垣に出る。車がなければ。当然交通費も出ない会合に、「行かなきゃいけない!」みたいな。これ当たり前なの?

そんな雰囲気がある。そんなところに行って、勉強になるわけ? 行ってためになるなら行く価値もあるんだけど・・・ それ、オンラインで見せなよ! 僕の中で、それはオンラインでよくて。 もしくはDVDで。どうせ誰も自分の意見言わない。講師が一方的に喋って、その人に講演料を払うためにやってんのかな? なんか、もう、それが垣間見える。

全Pとか県Pとかの組織そのものが、もう教育系の先生たちの天下りっぽい感じになってる。給料はもらってないんでしょうけど、講演会講演料を支払ってたりする。
で、我々は何百円が取られてる。そんな組織、何百円を払うためにわざわざ振り込みに行って、振り込み手数料を払う。もう手数料と金額が変わらないわけですよ。人数少ないから。「それを続ける意味ある?」っていう疑問から始まって。900円なんですけど・・根尾幼児園のPTAが支払ってる。県PTAの会費440円って・・・ 「止めておけ」といって、止めた。

これが、僕の出発点だった。また増えたら入ればいいんだから。喧嘩して辞めることないし。別に、これが30人40人(の児童数)で、PTAの大きい組織に入るメリットがあるなら、また入ればいい。俺は入ることないと思うけど。PTA組織そのものが、もうオワコンだと思ってるんで。
もう、この国に必要ない組織だと思ってる。

戦後の、GHQに作れと言われた、要は、女子やお母さんたちの団体、アメリカで作った組織が、この母体なんです。そんな組織、「今、この国に必要か?」っていう根本的な疑問もある。

僕は参加しなくていいと思ってるんですけど。ただ、それがないと困る人、それをやってきた人たちもいる。「PTAはいいものだ」みたいな幻想が、ちょっとある。それがちょっと面倒くさい年寄りになってて、PTAをやめると言うと、今のPTAに全然関係ない人が出てきて、「なんでPTA壊すんだ?」って平気で言うっていう。そういう感じなんですよね。

「自分は会長がやったぞ!」とか。要は、元PTA会長の方々が、その人にとって、PTAはプライドみたいなっちゃってて、PTAがなくなると元PTAっていう会長っていう肩書きも弱くなる。「もうPTAないよね?」って話になるんで。だから多分、守りたいんですよ。PTAやれっていう、一部のそういう人たちが存在している。だから、あんまり意味がないかな。ちょっと違うと思っているんですよね。

ああ、自己紹介。ここの住職のJOといいます。幼児園の現PTA会長です。子供は、上が姉の学園の2年生、下が年中さんです。一応ね、幼児園の方に、PTAをなくすという方向で、園長先生と一緒の方向に根回ししながら、調整中。うち先生に「もう無理だよね?」って話をしてる。何故かっていうと、6世帯しかない。役員5人ですよ?

MA
園児数も?

JO
園児は8人ね。6世帯しかいないの。役員役員5人ですよ。6世帯しかないのに、5人役員にしちゃうと、5人で役員会やったら1人ハブなんですよ。そうですね?

なんか、いろいろ辛いよねっていう話になって。やめた方がいい。なら、もう常にみんな6人集まった早い。これなかったら、LINEで教えてあげた方が良いから。もうなくそうっていう話を、うまい具合にした、みんな「そうだね」ってなって。PTAやめ。そこで、僕2年間かけてやるよっていう話で。「いいよ」ってなって、幼稚園の方が動いてる。

その流れの中で、今の学園のPTA会長さん、隣なんで。今日お仕事ちょっといらっしゃらないんすけど。同じ流れになったらいいねと。
なぜなら、「これは、数年後の学園のPTAの姿だよ」っていう話をした。
「そうだね」って話になっていった。いう今そういう流れの一つですね。大きいうねりができたらなと思ってる。

例えば、ちょっと特殊なのは、それこそ根尾、やっぱり交通が不便なんで。市の連合でも、会議は全部市内で行われるわけです。根尾で行われることはない。
そうすると我々は、1回1時間ぐらいかかっちゃって。しかも、平日昼間しかやんないんです。

やめなさいって!
仕事してるし、でれないでしょ! そういう時間にやることが、問題だ。
なんか働き方改革の先生たちは、「土日は無理です」みたいな、「夜も無理です」みたいなこと言う。だったら、オンラインにしなさい!
でも、「それはできません。なぜなら、アカウントを持ってないんで。」みたいなこと言い出すわけですよ。アカウントを許されてないんだとか、平気で言う。

なんか、ちぐはぐな。
教育委員会の体質が、もう駄目なのかもしれないんですけど。
違うはずなんですよね。先生たちとメールできないみたいですよ。今、この時代。先生たちはメールをしてはいけない。

KO
この本にもあります。メールアドレスを持ってない学校の先生という話。

JO
教員に個人メールアカウントを与えられていない。教員のパソコンでYouTubeは見れない。教育委員会からの一斉メールを、教員は土日に自宅で読めない。Zoomなどのツール使用禁止されている。校長なのに、学校に私物のパソコンを持っていけない。めちゃくちゃ変な話なんですね。もう、むちゃくちゃなんだよ。この「AI先生」とか言ってる時代に、この人たち、何言ってんだ?
ちょっと不思議な感じもするんですよ。

PTAの過去 軍国主義教育と民主化

NA
あの、話題提供さしていただいてよろしいです? その後できたら感想を1人、1、2枚ぐらい書いていただいて。その話題のネタついて、ちょっとずつ話をしていただけたら。

まず、告知した書評論文をみます。これ先ほど言われたPTAの成立ですね。PTA成立史。後の方のその岡田さんの本にも出て、同じ認識をされている。JOさんが言われたことと同じです。

PTAはやっぱり、前提として、日本人が、自ら市民的な活動によって作ったものとは言えない。それは絶対ない。戦前の軍国主義教育を危険視して、GHQが「日本人は、もう1回戦争イデオロギーを子どもに教えるに決まってる。それは止めよう」っていう理由で作ったわけです。

で、その骨子は、教育権は、教育委員会にある。国家にはないんだって分権主義。つまり、「国家が子どもを教育する」ことを避けるという視点がある。そのために、教育委員会を制御する必要があるんだけど・・・ 教育委員会を制御する人たちは、どのような人なのか?っていうの事の帰結が、多分PTAの導入になる。

KO
とても制御なんかできてないけど?

NA
まあね。その功罪っていうのは議論がありました。とにかくコンセプトはそうだった。もう1個、話題提供として大事なのは、これですね。

NA
これ、根尾地域で見つかった古い「少年倶楽部」の本です。今でいう、コロコロコミックみたいなやつ?
ちょっと昔の。近所の女の子が、「NAさんめっちゃ面白いもの見つけたよ」って教えてくれて。
「なんだこれは?」って驚いた。これ、昔のリアリティなんですよ。表紙のグラビアがね、水着の女の子じゃないんですよ。元帥・大将なんですよ。

天皇陛下を愛します。父母を大切にします。とか、なんとか。平気で書いてる。2ページ目のところに、爆弾3勇士の銅像模型っていうのがある。
これは、第一次上海事変中、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破した有名な人たち。これが英雄視されてるんです。ここから面白いんですよ。それが、全く別の経由で描かれる本があって。これ。安野光雅さんていう画家の「絵のある自伝」を読んでいたんですけど、この中にその爆弾3勇志が、いかに重要だったか?が出てくる。

「私の学校は3年生になると男女が別クラスになった。そしてつえ子も別のクラスになった。肉弾3勇志の美談はこの頃のことだった。私達は競ってその3勇士を描いた。文鎮から筆箱、下敷きなど肉弾3勇志の絵や図のないものは無かった。誰かが昭和の軍神とたたえ、日本人の誰もがその勇士の歌を歌った。」

っていう事例なんです。なんか、そういう世界観があったわけです。他にもですね・・・

「ついでに、くり事を言っておきたい。銃後では実際に戦えないから、毎日、敵国が本土上陸したときのために、竹槍で戦う訓練をしていた。年を取った人も若い主婦も、女の人は大日本国国防婦人会と墨書したたすきかけ、軍隊経験のある老人の号令とともに訓練をした。」

と、これ、あの母親会っていうPTAの前身ですよね? 基本こういう世界観を持っていた。当時は。他にも色々ありまして。

「・・・師範学校の研究所にいたことがある。英語なんか、敵性外国語だといって戦中はやらずに済んだ。だから英語を喋る人はみんな偉いと思っている。」

で、ですね。この「少年倶楽部」が、どれほど彼らの世代にとって、憧れだったかというと、

「私は、少年俱楽部の編集部にあてて手紙を出したことがある。私は絵かきになりたいんです。「講義録を読んで勉強すればいいでしょうか?」と手紙を。5年生のときだったと思う」

みたいな感じなんで。小学校5年生で、この人がここで生きてる時代と、この昭和7年の雑誌が、リンクする。
それで、敗戦するわけです。そこでアメリカ人が来るわけですけど、やっぱここが難しい。
つまり、PTA成立は良し悪し、あれ、上から与えられた民主化。無いと多分やばかったですね。絶対、軍国主義教育はやばかった。

また、教育権裁判っていう有名な論点があります。そのあとも、国家がやっぱり教育をしようとするわけですね。イデオロギー装置として。教育委員会、PTAへの指導干渉の問題っていうのがありまして。文部科学省とか内閣が、PTAと教育委員会に対して圧力をかけて、こういう教育をしろっていうふうに。そこで、知識人が裁判を起こすわけです。

「教育権」は、どこに、どのように定義されてるんだ?っていう裁判が起こりまして、その判決は、教育委員会にあるとされた。で、当時は多分、教育委員会は、「正義の味方」、知識人にとっては、良いものだった?

つまり何が、現在から見て困るのかというと、「国家が教育権を持つより、教育委員会はよっぽどマシ」っていう世界観があったんです。それは、もう他にもいろいろな例が出てきますけども、軍国主義に、落ちちゃうんだから。それよりはPTAのおじちゃん、おばちゃんとかが集まって、教育委員会に物申して、制御した方がマシだろう?っていう判断があったんです。がしかし、その後、制御できているのか・・・?

NS
そこですよね。日本。

NA
その後、教育委員会、PTAに、良かったことがあったのか?なかったのか?っていう批判がいろいろあって。やっぱり学歴競争になったときに、競争的システムを批判することにPTA運動は、役には立ったらしい? 「そんな受験勉強ばっかりさせても・・・」って言ったのは、やっぱりPTA連合の上の方の人たちが、頑張って制御をしようとしたらしい。

KO
ええ・・・。そうかなぁ。

JO
でも、なんかそれを、そういうことを言ってる人たちは、ざっくり勝ち残った人たちなんですよね?

NA
それ研究書だし。PTAの組織のトップにしたらそうですね。だからすごく上からなんでしょうね。

KO
もう生存者バイアスというか。ちょっとなー。

PTAの過去ディスカッション

NA
じゃあ、各々、感想等をシェアしてください。

NS
各市町村の教育委員会と、高校とかを統括してる県の教育委員会、それぞれ言ってることも違いますね?

NA
本当は、ボトムアップなんですよ。裁判後の公式見解は。だから、市町の教育委員会が、実は一番権限がある。本当はね。でも、そうなってないみたいな? そうなってない。

人事権と教育行政がずれるじゃないすか。岡田さんの方にも書いてあったけど。各地の教育委員会、一番偉いって言ってるわりに、その教員自体は、県? 県の教育委員会? に借りてる? 派遣されてる? だからどうなんだろうね? そこはちょっと研究した方がいい。わかんない。でも、市の教育委員会に人事権は無いんじゃないかな。

NS
なにかけばいいの? いわゆる軍国主義的なところに対しての?

NA
いや、この世界観も、この本も、僕はこう思ってるわけでもないですよ。このさっきの論文も単なる参考。ただ、さっきのGHQ説っていうのは、一定の人たちはやっぱり認めてる説だけど。
だけど、それが本当か?とか、そういう議論が必要だと思いますけど。

「でも、この説があるよ?」みたいな検討が欲しい。他にも説あると思う。あと、その過去の成立について肯定的に見る人と、めちゃくちゃ嫌いな人と、いろいろいるみたいで。いろいろある。あと教育委員会が「非行」を抑えたかどうか?みたいな論点もある。

MA
例えば、地元のPTAの動きで、昔からこうなってるのは何だろう、みたいな感じ?

NA
そうそう。色々、1回確認した方がいいっていうことだと思います。今は、やっぱりPTAって悪しざまに言われがちだけど。確かにアホみたいなこといっぱいあるけど。
ただPTAは、80年、90年とかやってるので、それなりにいろいろあったはずなんですよ。多分。

前に全入運動っていうのがあったんですね。今と真逆ですけど、PTAに全員入らせようっていう裁判で、PTAは任意団体ですって決まった後にそれじゃ駄目だから、任意参加に反対の人たちが、「PTAは全員加入なんだ」っていう運動があって。それに対して文部科学省が、いやそんなのは駄目、駄目だよって通達。それは政治活動だから学校の枠組みの中でやることじゃないとなる。そう言われて困ってどうしよう、とか。

JO
なんか「PTAという組織が勝ち取ってきたものもある」という意味あると思うんだけど。
なんか同時にいろいろなものを失ってて、その部分の整合性が、もうなくなってきてると思うんです。当然。労働組合と一緒で、団体交渉ができるから。

PTAは、団体交渉ができるという強みはもちろん強みなんだけれども、同時になんか、ちょっと没個性化してたり、長いものには巻かれろっていう日本の風習にすごくマッチしないというか。

例えばこれ、海外だったらみんな言いたいことバンバン言って、組織が活発化してみたいなところあるんだけど、日本は「みんな察しと思いやり」の文化だから。
察して思いあって、そうだね、そうだねって言って、何か傷をなめあって、組織を弱体化していった。解体していったんじゃないか。

官僚化してない? 分権なんてWORKしてない?

NA
じゃあ、さっそく振り返ろう。「官僚化してない?」っていうメモは誰ですか?

KO
それは私です。
官僚化というと・・・・、教育委員会とPTAの連合とかもやっぱ大きい、コントロールできないような、大きさの組織が、力を持つことがすごい嫌だな。僕らが、「何かちょっと、ここがおかしくないですか?」と言うときに、「いやいや。でも決まりだから、変えられないですから」みたいに言われるとか。やっぱり、納得いかないんですけど。

それって本当に何だろう。これまで、その他のカードにも、ちょっと繋がってくるんですけど。PTA連合とか教育委員会が、本当にその国家とか、自治体に対して、何か対抗的な力を発揮したりしてんの? みたいな。やっぱりすごく疑問がある。独立性あるかどうか、すごい疑問だよね。

NA
あれ、それ、岡田さんの本に書いてたじゃん。分権とか言いながら、「コロナで全校休校」みたいな。

KO
そうそう。だってね、行政の職員が教育委員会の職員やってるわけでしょ? 委員会の教育長は誰が任命してるんだろう? 市長が任命してるんじゃないですか。
教育長は誰が任命するか? 市長でしょ。だから駄目じゃん。

NA
いやでも、それが大事なんだよ。それは理論通り。市長が決めるのは、正しい。市長選挙は、地域の住民で実施されてるとされるわけでしょ?

KO
そうか。国家とは違うのか。

NA
ところが、岐阜県の場合は6割の市長が元県職員でしょ。官僚だから。元市長の6割が元県職員じゃ・・・。(参考: 都道府県知事・自治体首長 官僚元職比率) だって、県知事の6割が、元国家公務員でしょ。だから全然全然ね、あの、天下りですよね。なんか言うとね。本当にね、やっぱり。

KO
だから、独立してないんじゃないの?と思いました。
予算もね、別に独自の予算があるわけじゃなくて、自治体から分けてもらってるわけで。結局、その市長とか県、国家に何ら対抗できないじゃないかと思うんで。
対抗できないんだったら、影響を与えられなかったら、ただの図体のでかい組織なんじゃないの?

PTAはお母さん? お父さん?

MA
地元の、小さい規模のところ流れなんで、私は不思議だなと思うんだけど。うちの場合は、幼稚園、小学校、中学校であった場合、なぜか小学校は、お父さんたちが力を入れてくださっていて、役員はお父さんが多いんです。でも、幼稚園と中学校お母さんなんですよ。

NA
それ根尾でも一緒です。本当ですか?

JO
それは、割と明確な理由があって。小学校から文部科学省だ。昔はね、無償化で、幼稚園は文部省なんだけど保育園は厚生労働省で。幼保一元化で、幼稚園と保育園がもういろいろと一緒になって、その流れの中で、小学校もあることだし、厚生労働省がちょっと強くなってね。

保護者会が割と中心なのが幼稚園で、小学校に上がると文部省の流れ。そういう理由。組織みたいなのが、ちょっと現状だと。

実はわたし、昔、旧民主党の国会議員の秘書をやってって。ちょうど民主党が政権を取る前にね、ちょうどそういう時期だったんですよね。幼保一元化。民主党政権が具現化してくんだけど、その流れの中にあった。もっと1次元化しなきゃいけない。

KO
今、1つしか入ってないです?

MA
はい。男性が多いとか女性が多いとか、そのどうこうってわけじゃないんですけど、他の地域とかそういう流れもあるのかな? どうなんだろう昔からっていうのが、疑問です。

NA
根尾でも同じで。僕も、JOさんと同じように思います。多分、教育は、強権的なもの、その男性的なもの。一方、保育はお母さんなんですよ。だから多分、保育の文脈で女の人が会長がやること多くて、教育になると、どんどん「お父さん」になっちゃう。「お父さんやってほしい」みたいになります。その雰囲気はあるんですよ。

KO
なんかもう、それもナンセンスだ。
それによって、何か活動の雰囲気とか、内容とかが変わってくるみたいなのはあるんですかね?

MA
やっぱり小学校のお父さんは、消防団とかそういう繋がりが濃い。そこで繋がってるPTAの人たちが、もっとこう、なりやすいのもあるので。やってくださってるなら、どうぞっていう雰囲気で、今まで運営されていると思うんです。

やらない家庭のお父さんとかお母さんは、「やらなくて、ラッキー」っていう人もいると思うんですけど。今まではそれでも良くても、人数も減ってきてるし。やる方たちの人数がこれからどうなるか? みんながざわつき始めてる年代になってきてる。

PTAと他の地縁組織

NS
消防団の話は面白いな。

MA
まだ濃いですよ。うちの町は。

KO
操法とかやってます?

MA
訓練はやってます。それで結構、全国大会とか、出てて。

KO
なんか、わりかし、PTAの世界観に近いものをちょっと感じるな。

MA
20代から40代のお父さん。

JO
岐阜独特かな。それ。私は東京で多分消防団がもう少ないから。
例えば東京に住んでると、消防署が徒歩圏内に何件もある。東京で火事めちゃめちゃ多かったんで。だから消防団が意識が弱いというか、入ってる人の方が少ないから、消防団がPTAの母体であるない。逆に地域の町内会のお祭りとか、お神輿を担ぐグループという繋がりは、めちゃくちゃありますね。だから結局そういうことで、別組織と力関係が違うから。面白い!

KO
そういう人たちがやってると、やっぱり内容も変わります? 子供たちのイベントとかもやるじゃないですか? そういうのはどうなるんですかね?

MA
そこは学校と連携してるところがあるので、あまりガツガツと行かない。

PTAと近代国家成立、廃仏毀釈、国家神道制

JO
僕自身、バリバリ、リベラルなんで。別にここで表明して平気なんですけど。
ナショナリズムに右傾化したイベントが、好きではなくて。例えば平気で「お祭り」とか言うんだけど、なんか神社に、例えば「修学旅行でお参り」っていうんだけど、神社行くなら、寺も行けって思う。教会も行けよ。

歴史的な背景があるから行くのであれば、歴史的背景が深いものなんて日本全国どこにでもある。日本は、右傾化がナショナリズムにすごく繋がっている。ナショナリズムは、決して右傾化の意味ではないのに。
なんか右傾化すること=ナショナリズムという雰囲気がある。岐阜は、割とそれが強い地域かな?

NA
まぁ、そうでしょう。

JO
その中で、寺の・・・僕、副住ね。
面白いですよ。お宮の掃除は、地域でやるんですけど、寺の掃除やらないんです。

NA
わかるなぁ。明治期のネーション・ビルディング(近代国家形成)そのまんま。まじで、「まだ思ってんのかよ?」みたいな。

JO
んで、行かない。我々もいかない。お宮さんの掃除。
僕も行かないと、「この人、来ない。誰か1人出してくれ」て言われる。それで、いくらでもやりますから、「うち(寺)も掃除やりますから、来てくださいよ」っていうふうにしてるんだけど。もう(お宮掃除を)地域清掃だと思って、僕は言ってるけど。でも、お宮さんはそうじゃない。

NA
国家神道制っていうのが、そう簡単には消えないですよね。

JO
例えば自治会。平気で玉串料!

NA
でた! そう、あれね!

JO
私は払えないけど、これが「払うのが当たり前」になってきたら、言うけど。(玉串料)払うのが当たり前だったら、うちの総代料も払えっていうけど? だって宗教的儀礼でしょ? これは? 

それに近いものがPTAにちょっと存在するよね。今、平気でクリスマス会やってるけど。クリスマスってキリスト教のものだから。クリスマス会あるなら、花祭りは? イスラム系のものもやらなきゃいけないね。

だって多様化、多様化っていう割に、ものすごく偏ってるよね。そういうのを、例えばPTA主導でやるんだったら、疑問しかない。嫌悪感しかない。僕にとっては。僕、寺だから。

NA
まとめると、PTAっていうのが、GHQによって与えられた民主主義とすると、その前提にはやっぱりキリスト教世界観が存在する。だから子供会活動で、PTAクリスマスはできるけど、花まつりはやらないんです。これ、結構、イデオロギー的には、すごい順当ですけども・・・

PTAと民主主義の非西洋起源について

JO
日本の今の戦後教育ってアカデミックだから、アカデミーだから。学問だから。少なくとも、全ての学問において、キリスト教の流れを汲んだもの。そういうところから、東洋哲学とは全然違う立場で流れてる。勉強してる分は、もう全部西洋から押し付けられたものだっていう認識が必要だと思う。そこまで話ですと、大変なことになるけど。

NA
1個、僕も書いちゃったんですけど、さっき言ったその・・・民主化のために組織したPTAという組織が、日本人の民主的な話し合いに合わなくて、ワークしなくなるっていう事。日本の中で民主的な話し合いの仕方は、別のモデルがあるという仮説ができると思うんです。

その典型的な例が、宮本常一の「忘れられた日本人」。民俗学の本で、対馬に行ったときの話し合いのやり方が出てくる。
果たして、「民主主義」はヨーロッパが生み出した偉大な発明なのか? そう問われると、大体、近代の人類学者などは、「否」という。「ヨーロッパ人だけが、「民主主義」を発明できる、なんてこと、あるわけねじゃん?」と言って、アフリカでの民主的な実践や、日本での実践が出てくるわけです。

だから、多分PTAが、こんな上手くいかないのは、歴史を見ると、近代化時に、ものすごい話をしてる。国家神道にしちゃったわけですよ。だから、もう、その時点で、かなり無茶苦茶なイデオロギー操作してて。普通に考えたら、あり得ないですよ。

ずっと昔から、仏教あり、山岳信仰あり、めちゃくちゃ、いろんなものがあったんだけど、そのままじゃ、すぐに纏まらず困る。だから、「とりあえず1個にまとめよう!」みたいに。廃仏毀釈で、他が全部なかったことにする。その方向で、ワーッと突き進んでいって、「とりあえず、近代化しないといけない」から突き進んだあげく、敗戦して止めた。その後、今まで捨ててきた日本的な精神世界を使うのかと思ったら、そんなことせずに、アメリカの「民主主義は、PTAです!」みたいな。そういうことするから、うまくいくわけねえじゃん。

JO
違和感しか無いね。
せっかく、ここ、お寺だから言うんですけど、お寺って、「戦時教学」っていう反省があって、戦争中に、お寺にすごい国からの圧力がかかって、「阿弥陀さまは天皇陛下のため」って表した時期があるんですよ。

その「戦時教学」の反省から、新しい浄土真宗は、そこを全ての勉強してて、若手にも「そういうことがあってはならないんだ」ってことを教えて。当時、何人も捕まってるんですよ。住職で、反戦を訴えた人たちは。「お前は、絶対に死なないで帰って来いよ」といって。一言言って聞かせて、捕まるみたいなことが、もう何度も。有名な人では、例えば植木仁のお父さんとか。植木徹誠さんっていう浄土真宗のお坊さんなんだけど。彼は、反戦を訴えて、どんどん戦争中に警察に捕まった人。

みんなが「万歳!」言うときに、「死んで帰ってくんな。絶対生きて帰ってこい」と言って、何度も捕まる人。そのお父さんが、「わかっちゃいるけど、やめられない」とか、そういう言葉に、植木さんの歌に、「よかった」って言ったという逸話がある。僕は、こういう話を説教に使うんだけど。僕のネタなんだけど。
本当にイデオロギー操作っていうのもすごいあると思うんですけど。難しいですよね。

NA
今から明治初期ぐらいの、廃仏毀釈するぐらい前に、それこそ寺子屋とか、寺で集まって問答するみたいな、多様な文化が今から作れるかっていうと・・・
あ、僕この話するとき、なんでこのゼミを、ここ(専念寺)にしようと思ったかと言うと、それがあるんです。実は。
その昔の国家神道、軍国主義で、明らかに「軍神」って言ってるんですよ。
つまり、あれはだから、その天皇を神とする国家神道の中に、元帥や大将が位置づけられてるわけです。それの前に戻すってのは、やっぱり、寺とか、色々な日本人の精神世界に戻ったりするのかなと。

JO
できるって、ちょっと思ってて。

NA
僕もそういう期待してますけど。

JO
それで、ちょっとやりたいなって、今僕が。寺をメタバースでやって。メタバースで! ちょっとそれを覚えてもらって、実際やり始めてる。ちょっとそんなことを考えたりします。だから、新しい、でもそれを、岐阜から発信して、俺がどうなのかなっていう・・・ ちょっと怖いって思ってますけど。

KO
その神社的な世界観から逃げ出したくなる大人と子供が、たくさんいるわけだから、やっぱりそういう時ね、駆け込み寺じゃないですけど、やっぱり行く先は必要ですよね。絶対。

NA
あ、でも、ちょっとそこで、「神社」っていうものと、「軍国主義」「国家神道制」を、ちょっと切り分けた方がいいかも。「廃仏毀釈」のときって、別に、神社と寺が、そこまで明確に全部の宗教で綺麗に分かれていたかっていうと、結構曖昧だから。今、「神社」って言ってる人たちは、どちらかというと、権力寄りだったってことですよね。今、「寺」って言ってる人たちは、そんな「俺ら関係ねえ」って言ったから、干されちゃった。

JO
もっと言うと、寺の中に神社があった。
だから、宮司兼住職みたいな。昔ね、明治以前。それが、はっきり分かれていった。国家神道になったときに。神社を使うことによって、寺とどんどん分かれて。

NA
「寺」って言わない方がお金が回ってくるわけ。なんか単純にそういうもんだから。

JO
だって、どう考えても嘘になっちゃうから。寺の住職から言ったら。今まで言ってた話と真逆のことを言い始めるわけだから。だって無理でしょ? それはもう、そんなこと今から言っても、「誰も信じねえよ」みたいになっちゃう。新しく神社っていう存在を作ることによって、「御霊」みたいな。霊魂という存在を作り上げる。

本来その霊魂がないっていうのがお寺の存在だから。新しい霊魂信仰を作るっていうのが、日本のやり方だったから。それが、日本の怖い話とかに繋がってる。全部繋がっていくんだろうな。

霊魂存在の否定が坊さんの役目だから、霊魂の存在を認めちゃったら、もう寺ではないので。仏教ですらない。面白いな、神社はそれを霊魂っていう、ものを拝むっていうのも、なんかちょっと面白いなと思います。靖国問題とかやれば、僕はもっとめちゃくちゃ喋るけど。

PTAと社会の変化

NS
僕は、そんな大事なこと書けないすけど。
PTAの理想って、「金八先生の第2シリーズ」であって、学校の対決の中で、向こうは警察と学校、こっちはPTAで、PTAが地域の声として立つ、掛け合うみたいなポジションを期待してた。

これがPTAみんなが目指してる感じなのかな? 成り立ちとかも、いろいろあるんすけど、どういう組織が、そもそも理想なのかな? それが、よくわかんないなって思います。
やっぱり、PTAの話、例えば「NS、暇だからPTAの役員やってよ?」って言われたら、別にやってもいいかなとは思うんですけど。
でもそんな声もかからないし。

KO
あと、「親と教師が参加資格」とかね。

NS
っていう感じなんで。だからこの辺の話はもう全然・・・ 言ってることはわかるんすけど、あんまり頭に入ってこない。

JO
でも、理想だよね。きっと多分。一番は、地域で協力してくれる方がやってくれるのが。

NS
ドラマの中だと、近所の魚屋が、学校に行くとか。「俺、入ってやるよ」みたいな。そういう、わかりやすい演出も、もちろんあるんですけど。

JO
でも、あれが理想なのかな? 地域側がPTA。教育委員会と対峙するみたいなのが。本来のPTAの役目ですかね?

KO
それはわかりやすいですけど。それだったら、何か意味があるかな。民主的なコントロールができる。

JO
でもなんか、今それが、もう牛耳られちゃってるでしょ? 結局。

NS
だから、書いたのが、何か軍国主義的な思想を植え付けるに当たって、民衆側が「いやいや」みたいな事があったと思うんすけど。ある程度のその理解が昔に比べて進んだんで、ここの差がちょっとずつ埋まってる、お互いがお互い、何に対して言えばいいのか分からない感じになってるのかも?

JO
何か社会問題の陰湿化というか。
昔はわかりやすいヤンキーだそうそうわかりやすい殴り合いをする時代で、その親たちにもそれが見えて、うん、傷つけて帰ってくるからしばらくしてくるからね。
地域の人たちもまた喧嘩してんのかってわかっててワーッと助けられてみたいな世界観だったのが、ものすごい陰入っちゃってて、ネット上でやってたり、裏でやってたり。

KO
貧乏な人とか見ては区別できないですよね。

JO
そうなんですよね。そういう面でもやっぱりPTAのあり方は、そういう時期時代に変わらなきゃいけなかったのかなみたいな感じはしますけどね。

NS
僕の世代だと、僕は東濃の方で暮らしてたんで、いじめの問題とかあったんです。あの時代、自殺があっても、PTAの話ってあんまり出てこなかったんですよ。学校の問題だっていう認識。学校で陰湿なことが行われて、学校の問題だと。PTAは話にでてこなかった。PTAのポジションって、どこなのかな?

JO
学校側が力を過ぎて、親たちに割と親たちをコントロールしだしたんでしょうね。学校と教育委員会親たちをコントロールしだしてて、それ通り言ってるんですよね。それ通り言ってるから、どこかで何やら、研修会ありますよ、ナントカやりますよ、みたいなのが成立する。

正解の強要

JO
「正解の強要」って書いたんだけど、例えばこの子はこういう子が良い子です。こういう組織が良い組織です。っていうのはもう用意されたもので、そこから外れる人は悪い人で、うん。協力的じゃない人で、うん。そこから外れる子は良い子じゃなくて、うんみたいなことを平気で教育委員会側が作っちゃってる。見る子供像とか組織像みたいなものに当てはめられちゃってる。って言ってるような僕は気がしてて。なんかそれは怖いな。

NA
それに関連する話です。僕ら、仕事の調査で、谷汲長瀬の元園長先生の話を聞きに行ったんですよ。

KO
元園長先生どころか、あの人は教育委員長。

NA
教育委員長に話を聞きに行ったです。

KO
高校の先生か、小学校の先生か? とにかく先生OBですね。

NA
その人たちが、子供のときの話を聞いたんです。そのとき印象に残ってたのが、「先生が神様だった」って言ってるんですよ。どういう意味かというと、「その先生が間違ってる」なんてことは、想像もしなかったし、両親も、「先生が間違ってるかもしれない」なんてことは、全く考えなかったと語る。

僕、それについて考えてみたんです。その当時は、小学校の先生は、師範学校卒業、つまり教育学部を卒業してる人なんです。地域の中に、それと同等の知識人がいるかというと、多分0だった。だから圧倒的に知識が非対称だったわけです。で、今どうなっているのかというと・・・

KO
先生の方が教育受けてない・・・

NA
そうなっちゃう。この本にも出てくるけど、大学の教授が、PTAとして来たり、建築士、弁護士が親として来たり。その人々に対して、20代そこそこ、30代そこそこの先生が、対峙する。

その状況だから、「正解を強要」をしているというより、「正解という盾」 盾を取らないと議論にならないんです。「正解だ」っていうふうに言わないと、「それ、合ってますか?」とか言われちゃう。

JO
そうですね。「何を根拠に?」とか言われちゃったら。
でも、なんだろう、役人の股の開け方というか・・・
逆に言って、会話の仕方ってめちゃくちゃ大事だよ。プライドの塊じゃないすか。そのプライドの塊の役人を、「どう話さないといけないか?」みたいなことを、誰も考えてないじゃない。

「その方法論で言ったらやられる」という方法論で行くからダメで。
教育委員会の話とか、このPTAをなくすって話なんかでも、めちゃくちゃ徐々に、役人の顔色を伺いながら、「あなたの力添え」みたいな言い方をして、味方にして、1人ずつ味方にしていくしか方法がなくて。

でも、ある日、トップダウンで「ドーン」と今まで積み上げたものを壊す可能性が、役人には平気である。トップダウンの世界なんで。何かそういうのを、がっかりしない奴じゃないとできない。

多くのパパ、ママは、がっかりしちゃうよね、そういうのを目の当たりにすると。だから それが、多分今のPTAの結構大きい問題です。「もういいよ、もうすぐ、うちの子は」ってなっちゃう。実は自分の子どもだけじゃなくて、後に残すことを考えると、積み上げ、もう1回積み上げ直す。「いいじゃん半分残ったじゃん」みたいなことで、積み上げ直さなきゃいけないのに。なんか笑っちゃうよね。なんかそういう世界観ね、感じてあります。

PTAの未来 新しい自治

NA
本(政治学者、PTA会長になる)の要約。ちょっとKOさんお願いできます?

KO
政治学者のアラフィフぐらいのおじさんが、子供が小学校に入って、PTA会長やんないかって言われて、やってみたら、しんどい思いをしている人たちが沢山いた。それで色々変えていくんだけど、その中で「自分も間違ってたな」と思うことがたくさんありながら、何とかやってみた感じ。それこそ、さっきの、先にPTAを残すために、あるいは「これはできないかな?」っていう試みを頑張ってみたっていう本ですかね? ちょうど3年、この人は、PTA会長やるんですけど、3年目の最後にコロナ禍になって、その最後バタバタ、みたいな。

JO
これですね、すごく面白かったんすけど、都会のPTAなんですよね。参考にはなるんだけど、うちの規模だと、ちょっと、そこまでなんだよな、と感じてね。多くの日本のPTAは、多分こっち(小規模)の方によって、都会のPTAの方が少ないんで。あ、人数多いかもしんないけど。組織の数としては、これに当てはまるのは、少数。

PTAってプログラムが都会のものなんですよ。だからもう、なんかすごくそれを感じてて。田舎は想定してないんすよね。PTAって。真ん中で作られてて。

NA
僕もちょっと要約を。端的に重要だなと思った箇所の要約だけ言います。

PTAの話は全て個別の話であると著者は言ってます。つまり地域ごと全然違うから、ケーススタディにはならないって言ってます。
PTAは自治の話であると言っています。政治学者としてこれは自治の話なんだと言ってます。
PTAとは生活そのものであるとも言っています。著者は、学校施設や学校の先生は、窮屈になっていて、自由がきかないと認識してます。
具体的なエピソードとして、専業ママとワーキングママの対立構造が激しくて、まずそこをどうやって抑えるかが1個のキーになったと描いてます。その著者は、いろんな規約とか民主的な手続きについて「正論」を言うんですけど、「正論が通じた」っていうことが最初、「危険な成功だった」って表現するわけです。
つまり、一定の人に正論を言ったら、それが通じたっていうこと。正論を振りかざすようになるんですけど、それがどんどん問題を複雑化させたと認識してます。多くの人は、「民主主義の原則など少しもピントこない」話なんだって言ってます。
彼らが、何に支配されてるのかっていうと、それは「不安」なんだと。「不安」の正体は、一体何なんだっていうのを、ずっと書かれてるんですけど・・・ 「不安」の答えは、ちょっとよくわからなかった。いくつか用語が出てきて、政治学の要望だと思いますけど、「組織維持の自己目的化」っていう用語。PTAは、顕著だと思います。
あと、ポイント制っていうのが記述されてます。多分、これはいろんなPTAの規約にある。この条件の人は、これだけやったから、「免除」みたいなのが。作中のPTAは、「ポイント制」としてコード化されています。

あと面白いのが、「全ては子供たちのために」っていう表現が否定的に書かれてる。
この本では、「全ては子供たちのために」っていう人は、めちゃくちゃ恐ろしいものとして書かれてる。あとはですね、「スタンダードが上がる」から、やめてくれっていう表現。つまり、頑張らなくてもいいと。リーダー 対 オペレーターという対立概念も出てきます。
1人1役 対 継続役員って対立も出てきます。これ顕著なのが「ボランティアとは、本来不平等なものだから、1人1役なんてできないんだ」と著者は主張しています。
あと、「単年度やりすごし主義」っていう用語を使ってます。つまり、1年間役を務めることを目的化して、何もやらずに、万事シャンシャンと終わらせるとが賢いことなんだ、ということ。この言葉、10回以上使ってると思うんだけど。

あと最後の方で、自分は「何者でもないんだ」っていう人たちの話がでてきます。それは、岡田さんっていう「政治学者」とか、他にも「キラキラ・プレイヤー」が出てくるんですよ。
そういう、キラキラプレイヤーには、「自分は何者でもない」んだっていう人たちが考えてることは、分からないと、「ツレアイ」に言われてる。そういう感じですね。
あとは、終わりの方に、成功体験が描かれるんですけど・・・ 民主主義の原則が、「身体化された原理」になるっていう言い方をする。身体化っていう言葉をよく言ってて、それ以外では、「日々のロジック」いう言葉を使ってる。
つまり、民主的なプロセスについて、政治学者が「こうだよ!」って、手続き上の正論を言っても通じなくて、それが通じるようになるために、その原理が身体化されたり、「人々の日常のロジック」にならないといけないと主張している。で、最後の方で成功して、組織の中で、そういう実践ができる人が増えてよかったねって話で終わる。

PTAの未来ディスカッション

JO
テキストとしてはすごくいいんだけど、本人がおっしゃってる通り、どこにでも当てはまる話ではないから、考え方をエッセンスをもらうことができたんだけど。この通りはできない。別に参考書でも何でもないから、それでいいんだけど。

NA
ここからは、未来志向で。この本を踏まえて、我々はどうするべきか?考えましょう。

地域連携、コミュニティスクールの形骸化

JO
PTA会長になって、よくわかんないない人がいるってことが最近分かった。
民生委員が来たんです。地域自治会長、地域連絡協議会みたいのがあって。その中に青少年委員みたいなのを入れる。 何あれ?

KO
学校教員のOBとか?

JO
もうなんか、老害でしかなくて。「どうにかしないと」と僕は感じてて。

KO
青少年委員って、具体的にどんなことしてるんです?

JO
分からないけど、その地域連絡協議会みたいな、学校運営協議会みたいの出てきたよ。
何回も出てくるんだけど、別に何かトピックを言うわけでもない。名誉職で、何かよくわかんないけど。卒業式に呼ばれてきて、「おめでとうございます」って一言。

KO
それなら無害じゃない。

JO
それなら無害なんだけど、なんかその・・・
「その人たちの意見も聞かなければ」と平気で言う園長とか。なんで、その人の意見を聞く必要があるの? 「学校運営委員なので」みたいな。学校運営委員会って組織で、何かを決めるんだったらPTA要らないじゃんって。「余計な組織作るなよ!」って思いがあってね。

NA
ああでも、ワークしてないですけど、あれは実は、可能性がめちゃくちゃあると思うんです。
つまり、例えば、NSくんみたいな人が、学校運営に参加できる余地がある。
現状、ただそうなってない。

JO
そう。だから僕は、NSさんみたいな人(独身)をPTAに入れる方法を考えた方がいい。PTA組織自体を地域化する。
PTAって、学校や親のものではなくて、地域のものにしてしまう。だから、もう全然別に子供がいなくても、あるいは歳がいってても、収拾つかなくなるぐらいちゃう可能性もあるけれど。

NA
そういう方向性は、あるんだろうな。

JO
そうですよね。NSさんみたいな若い方が、来てくだされば、すごい力になると思う。親には考えつかないような視点を持ってると思う。それ、実はすごい重要なんじゃない? 子供にとっても重要なんじゃないかって思う。逆に、ママたちのパワーが必要だったりするし、難しいですよね。

自治の入口としてのPTA

KO
自治の入口について。ほとんどの人たち、やっぱり自分で自治とか、民主主義に全く肌感として感じないまま暮らしてる人たち対して、自治の入口をどうやって作るか?ってこと自体が、すごく大事なことだと思う。

ただ現実問題PTAは、その入口として機能してない。それどころか、「こういうのはクソだな」って思う入口になってる。ワークショップとか、まち作りワークショップとか、そういう入口が随所に用意されてる。「ワークショップってクソだよね」みたいなこと平気で言う人いるもいる。そういうワークショップで溢れてるし。今、「落とし穴」みたいになっちゃってる。

楽しいPTAを作りたいな。PTAに代わる別の入口を作るっていうのが、ポジティブな形でできたらいいなと思う。それはやりたい。そういう意味で、この本では最後、ボランティア・センター化しようっていうことが書いてあった。PTAっていう形は、そのままなのかな?

テーマを自分で持ってきて、それをみんなで手伝ったりする。だから、やんなきゃいけないことが山積みになってるんじゃなくて、やりたいことを持ってきたら、みんなでそれを応援し合ってやろうっていう方向。だから、肝心なのは、「それでいい」とするところだと思っていて。

まち作り協議会とかも、基本的にそういう感じでいいと思うんですよ。年がら年中、同じイベントをやるための組織じゃなくて。そのとき、その人たちがやりたいことを、みんなで考えてやろうっていう。それはいい落としどころだと思ったんです。

あとは、本の中で、オカケンさん、結構友達が多いんすよね。
飲み友達とか、いろんな友達がたくさんいて。なんだろう? インフォーマルな交流を持ってる人たちがたくさんいて、その中で応援されて、「会長になってよ」って言われたり。何かいろんなこと教えてくれたりする、みたいな感じのパス。

多分、問題にする場所とか、いろいろなまち空間がある。充実してる中での繋がりがあるんですけど・・・。 あれ? 僕なんか、谷汲で何かする、何か、保護者友達とか、そんなたくさんいいるわけでもないし、友達グループ作るんだって言っても・・・ なんか、すごい悲しい悩みに突き当たりつつある。だからそういう基本的なところだけでは意識してみようかな。

「当て職」化する地域社会

KO
あとは、「当て職」やめたいなって思ってます。
今年から、谷汲のまちづくり、地域作り協議会、委員会委員になったんです。30人ぐらい中で、多分、ほぼみんなが「当て職」なんですよ。

僕は、やりたいからやらせてくれって言って行ったんだけど、ほぼみんなが「当て職」。
フリーマーケットイベントでやろうって言ってたから、何やってもいいんだけど・・・
フリーマーケット、別にそんな素晴らしい取り組みだと僕は思わないけど。でも何かいいことが一つあるとしたら、自分で好きなお店を出せる。

だから、この町には今「やれって言われて、やらされるつまらない町作り」の活動しかないけど、ここだったら「自分の好きなことができるよ?」と考えると、もしかしたら、このフリーマーケットはいい取り組みになるかもしれない。そういう場所だよってデザインとか、PRとかをちゃんとできたら、もしかしたら、ちょっと雰囲気良くなるかも知れないですね? みたいなこと言ったけど・・・

誰にも刺さってなくて。
その時に、「そうか、この人たち、みんな嫌々来てるから、この言葉の意味がもう伝わってないんだ」って。だから、そのギャップをすごい感じてる。

「当て職」の人たちがそこで埋まってると、やる気のない人たちだけになって、やる気のあるとか、何か問題意識のある人たちが、可視化されないんすよ。
だから、「当て職」するぐらいだったら、空席であることを可視化する方が、よっぽど大事だと思う。この役割が必要なんだけど、やりたい人がいませんっていう。

NA
空いてるから、やりたかったら入ってきたら? っていう方がいいよね。

KO
だから本当にすごい嫌だなと思って。PTAについても、僕が、何か思ってるのも、そこかもしれないです。

NA
連絡協議会の人もそうですよね。結構、「当て職」が多い。自治会長の「当て職」ですから。何でこんなことに呼ばれなあかんねんって思ってる。

KO
うまくいくわけない。

安全と自由のトレードオフ

NA
ちょっとそれにかぶせていくね。そこで出てくるのが、「安全と自由のトレードオフ」
組織構造を作るのって、やっぱり官僚的な人が多いじゃないですか。つまり連絡協議会をつくらなくちゃいけないことは、上からの民主主義。地域の中に実施できる組織を、「上から」作らないといけない。先に形だけ作る。

まち作り協議会とか、地域連絡協議会、コミュニティスクールとかの形だけ作ると、そこに人を入れなくちゃいけなくなる。普通だったらそこで「公募すればいいじゃん」っていう発想になるんだけど、公募しないんですよ。そのときに、官僚が何考えてるかっていうと、公募して、自由、自由度が高い状態になって、「変な人がいっぱい来たら、どうすんのって?」思ってるわけです。

だから、そうならないために、自由にできなくしてる。わざわざ。だから自治会長した人、つまり僕らが選んだ自治会長にする。各自治会の中で決めたでしょ? だから安全。自治会長さん、商工会議所の会長さん、とか何とかっていうふうに決めてる。

つまり、彼らは自由を拒否してるわけ。で、それは何かっていうと、「自由と安全のトレードオフ」がある。「自由にしたら変な人が来るでしょ?そしたらどうすんの?」って言われるから。いや、あの、自治会長さんに来てもらうようにしますね。公募枠作ってもいいけど、1個だけとか。そういう発想してるんだなと思ってます。

でも、そんな変なこと起こらないのに!!

労働(labor)・仕事(work)・活動(action)

JO
もう、そんな人いないよね。
関連して、労働的な側面があって、例えばベルマークとかPTAでやりますね。古紙回収だとか。「当て職」にも関わらず労働があるんですよ。「当て職」の労働ほどつらいものはなくて。本当、強制労働です。それはもう強制労働だから! だから、それでしか維持できない組織って、もう不健全。「それ、やんなきゃいけないの?」と。

例えば、根尾の問題でいうと、子供1人につき、(会費が)幾らじゃないんですよ。世帯につき幾らなんです。PTA会費。
で、意見としては、その「世帯」へ意見を取ってるわけじゃなくて、子供たちにチラシ配って意見回収とかする。例えば子供が5人の世帯も、子供が1人の世帯も、1個の意見ではないのに、会費は1世帯ずつなんですよ。

そういう不平等が平気でまかり通っちゃう組織。もう組織が不健全だと思ってる。もう、「こんな組織は早くやめた方が、いいぞ」と思う。強制的な労働は、これから許されないんじゃないかな。

一方で、この本に書かれてたのは、「ベルマークの作業をしながら、ママたちが話をすることが何より重要だ」という事に、岡田さんは言及してる。それを都会はそうなんだけど、もう根尾なると・・・
また、自分も「そうだ!」と思いますよ。でも、ママたちの会話のためのベルマークは成り立たなくて。

KO
あそこ、どう読めばいいのか、ちょっとよくわからない。

NA
それについて。著作の中で、岡田さんは、「活動と仕事を分ける」と表現をしてるじゃないすか。

これ明らかに、ハンナ・アーレントから来てる。アーレントていうユダヤ系ドイツ人の女性の哲学者が、「人間の条件」の中で、言ってる。

あれは、何の本かっていうと、ドイツの大戦とホロコーストを、生き残ったユダヤ人女性の分析なんですよ。ナチスの全体主義を分析したときに、その起源にたどり着いて、全体主義を免れる人間の条件とは何かっていう事を考える。そこで、アーレントが注目したのが、要するに「働く」みたいなこと。多くの人が、1つの言葉で表現しちゃう。

あらゆる人間の活動(アーレントは活動的生活(vita activa)と表現)を、一つの言葉で表現しちゃうんだけど、それが、そもそも間違いですと主張してる。なぜ、それが起こるかっていうと・・・、ナチスって日本語で言うと、国家社会主義ドイツ労働者党じゃないすか。

つまり、「労働」を社会的に国家が統制するんだっていう考え方なんですけど、その際、人間のあらゆる「働く」を、1つの「労働」って言っちゃったわけですね。それが、全体主義の起源に近くて、それを、切り分けましょうって言ったわけです。

岡田さんは、多分、意図してシンプルに2つで言ってるんだけど、アーレントは、三つに分けてる。一つは労働(labor)で、一つは仕事(work)で、もう1個は活動(action)と言ってるんです。

多分、岡田さんが言ってる「仕事」っていうのは、労働と仕事の方。「活動」って言ってるのは、アーレントの活動を指すんです。アーレントは、全体主義みたいなことを避けるためには、1人の人間がこの三つを備えておくべきだってことを言いたい。

つまり労働だけやってる労働者とかは良くない。アーレントのいう三つの定義でいうと、「労働」っていうのは、自然と戦うこと。つまり空腹のためにご飯を作ったり、草生えて草刈りとか。必要に応じて、自然現象と戦うために人間がやることを「労働」って言ってる。「仕事」は、その労働を助けるために世界そのものをアップデートすること。つまり発明をするっていうのに一番近くて。機械を発明した後、労働が圧倒的に楽になる。それを「仕事」と言ってるわけです。

「活動」は何かっていうと・・・、要するに「それ以外」のことがいっぱいある。例えば哲学するとか、音楽するとか、こうやってディスカッションするとか、何が幸せで、何が楽しいのかって話すとか、演劇するとか、アートするみたいなこと。

だから、全部の「働く」を、「労働」とか「仕事」に当てはめていくと、「やらされる」こと以外、なくなっちゃうじゃないですか? つまり「労働」っていうのは、お腹減ったり必要に迫られてやることなので、本来、別に人間が「やりたい」こととあんまり関係がない。

そのモデルを全部に当てはめると、全部のことが「仕事」になっちゃうじゃん。ミュージシャンが音楽するのを「仕事」とか言っちゃう。挙句の果ては、ミュージシャンが、「俺、売れないからミュージシャンじゃないんだよね」とか言って。意味わかんねぇ!! 売れなかったら、音楽やってるのにミュージシャンじゃないの? 音楽やることが、音楽なんじゃないの? そういう事が通じなくなっちゃう。結構なこの本に出てくる人も、みんなそういうふうに思ってる。

だから、「ボランティア」の意味がわからないです。「やりたいからやってるんだけど、何がダメなの?」の視点が、分からない人たちがいるんです。「それ、仕事になってないっすよね。お金儲けになってないじゃないですか? 効率が悪い」って言ってる。いや、だから、これはあなたが言ってる「仕事」とは関係がなくて、「活動」なんだって、何回も言ってるわけです。

JO
伝わらないよね。
根尾でもあるね、それ。たぶん通用しないんだよ。伝わらないよね。だから、かなり全体主義化が進んでる?

NA
多分。。。

JO
いや、だから「やりたくてやってるだけで、いいじゃん」とか思って。
全体主義化が進んでるのかな? そもそも全体主義的な民族なんじゃないかな。地域性もあるけど。だから、その中に、違う発想を入れてくってのが、なんか正解のような気もするけど。なんか、ものすごい混乱してて、この地域には、そういう全体主義的なものが、もう元々土壌としてあって、だからどんな組織を作っても全体主義になってて。

NA
いやいや。でも、やっぱりそこまで僕は悲観したくないな。例えば、地域の公民館にある映像資料があるわけです。昭和50年代半ばぐらい、僕が生まれたぐらいの頃のフィルムをテレシネしたVHSビデオがあった。地域の運動会を写した映像なんすけど、めちゃくちゃ面白いですよ。
綱引きやってるんですけど、ベロベロに酔っぱらった人たちが、両陣営に分かれて、うわーってなんか盛り上がってる。もうなんか、仮装とかすごい。めちゃくちゃカオス。(活動が)なくはないんですよ。つまり、あれだって絶対に「仕事」じゃない。「活動」なんで。

そう、だから無くはないんだけど・・・ でも今って、そうならないですよね。何でだろう? ただ、この「活動」概念、やっぱ岡田さんが言った「活動」概念が、どんどん通用しなくなるていうか。

これ(PTAゼミ)もそうなんですよね。「こんなことやって何の意味があるの?」って。やりたくてやってるんだけど、まずそれが伝わらない。
そう、いやぁ参ったな。ごめんなさい、実際そう。

KO
そうかあ、もう。

NA
これ(PTAゼミ)も、意味がわからない。やりたくて、やってんだけど。だってなんか面白いじゃないか?

JO
すごく面白いですよ。人が、いろんな人の意見聞いてるし。自分の言いたいこと言ってるけど、僕が喋って申し訳ないなと思ってますけど。でも何か、意見を言える空間があること、人の意見を聞ける空間があることの贅沢さに気づかないのかな? 気づかない、気づけないのかな? でも何でそうなっちゃったのかな?

NS
でも、思想がないと、何かそういう他人の意見が、要は、「指示」と同じぐらいのレベルにしか聞けないっていうか。結局、「考える」よりも、「どうすればいいんですか?」みたいになる。この本、読んでても、ボランティアの活動で、「金もらわずにやってる」みたいな話とかも、「指示」とか、「目的」が何か? 「ゴミを捨てる」という「目的」に対してやってるだけ。別にそれで? 同じ時間をつぶして、お金もらってる人への不満は、そういうとこ出てくる気がします。役員やる人っていうのもなんか・・・。

僕は、非常勤講師業やってたんですけど、「学校で落ちこぼれだった人が、講師業をやると、大変だ」と言われたことがあった。
自分の理想を押し付けるみたいな感じがあって。役員を推薦されずに、立候補してやるっていう人。「積極的に関わりたい」っていう人って、なんか「ベキ論」だけしてきちゃう?
でも僕、現場見てない、何もわかんない。

JO
自分で言うのもなんだけど、そういう傾向にある。「べき論」を言っちゃうね。言っちゃうことが多いかな。それを気をつけなきゃいけないな。と思ってるんだけど、出ちゃう。

そんなときは、もう止められない。これはもう使えないんじゃなくて、でもそこに何か信念とかあったりとかして。俺はこう思うんだ、こう言うべきなんだ。違うなら言ってよ?って想いもあるんだ。誰も「違うんだよ」とは言わなくて。いいや、言えない空気作ってるのかもしんないけど。なんか好きじゃない。

NS
意見を言うぐらい、別に、それが対等になればいいんですけど。それで組織されていって、トップダウン式に話が行くと歪むんだろうな。

スクールカーストの再生産

MA
本とリンクして、うなずくような事があった。なんか、身近にいる役員の方でも、「やりたいからやる」ってわけじゃなくて、「やらされてるから、やらなければならない」感じで、やってる方もいる。会を設けて・・・、本当に小学校は夜会合があるんです。月1集まって。やっぱり「こうした方がいいね」って発言する人は偏りがある。

意見を持っている人でも、ただ単に「その年を無事に役割終わったら、終わりだから」みたいな、半分おとなしくしとこうっていう感じの方もいらっしゃる。「なんだかなぁ」っていう雰囲気はあるんです。

二つ目は、ここに書いてたオフィスママと専業の話。確かに面白いなって思って。なんか私の周りでも、「やらなきゃいけなかったら、仕事してた方が得じゃない?(PTA)やらずに済むから」みたいな感じ。何だろう? 「仕事してないから、やらされてる」感っていうのは全くないんですけど。何か、そう捉えてる人とかもいるのは事実。でも、それじゃないと思うけど。

あとね、やっぱり地元感がすごく強い。昔も幼い頃からの繋がりのお母さんでもそうだし、お父さんもいらっしゃるので。やっぱり、先輩のやり方をそのままやっていかないと。
もう引退した先輩、だから、ちょっとでいいのに、その人の顔、まだ全然元気でバリバリ近い存在でいらっしゃる立ち位置があるのかな? 私は、全然そういう空気がわからないですけど。

数年前の先輩のやり方を、そのまま引きずる会長さんとか。実際それで動いていて。学校の先生も、3年ぐらいで変わっちゃうから、校長でさえ。だから、「もう神戸小のやり方でどうぞ!」とか、何かで「どうぞ!」っていう感じでいる。そうすると、もう昔のやり方がずっと続く。

NA
それは感じるな。廃止すると、前の人が怒りますよね?

MA
そうなんですよ。「前の人が作り上げたのに」みたいな。そういうのがずっと受け継がれてる感はある。

JO
今的に言うと、スクールカーストはそのままPTAの組織図に入ってるから。だから、後から来た僕らはアウトカーストなんだよね。「アウトカーストのやつが何を言ってます?」とか。地元なんですか?

MA
私は全然地元じゃないから。嫁いで。

JO
それですよね。もう、すごいね。すごい。本当に強いと思うんですよ。
僕は、話が全くなかったの。やっぱ都会だから、都会だからと思いますね。
それがなんだろうな、地元のスクールカーストがそのまま組織図に入っちゃって、学年は逆転してたりする。年下の子が先輩の子が、年下だったんですよ。そうすると、PTAの規約的には、会長は後輩なんだけど、下の組織に先輩がいる。その中で力関係があるから、気遣いながらやってる。

NA
それ、もっとすごいですよ。役場のやつが元々いじめられっ子のパターン。結構多いですよ。役場に入ってる奴って基本的に勉強する奴じゃないすか。地元に残ってる人って割とガテン系のヤンキーみたいなのいるから。PTAに関して職員が来るわけです。

ヤンキーの親が「よぉ!」とかって言て、役場の職員が「よろしくお願いします」っていう。でも、僕みたいな外から来た人と、外で話すと、役場の人はめちゃくちゃヤンキーが嫌いなわけ。すごい。「すっげえ嫌なんすよ、NAさん」とか。

JO
過疎地域あるある。すげえ。この視点は多分、岡田さん、聞いたら笑っちゃうだろうね。

KO
そうですね。なんすかね。

NA
今度は、逆にその教育委員会とか役場の中に入ってる人たちの間で、逆の「恨み」を感じることが多い。すごい。「あいつらが、こうなることは中学校の頃からわかってたんだ」と。「もう絶対に、こいつらを、相手にしないし、絶対こいつらの良いようにはしてやるまい」と思ってる?

KO
全体的に何かありますよ。役場の人の。その市民に対する上からの目線が。

JO
でも、それね、昔はね、こうだったんだよ。つまり「復讐」なんだよ、あれ。

NA
はい。

JO
そう。あれ「復讐」なの。だから突き抜けるの。議員とかになると、さらにもっと上になって。今度は本当に突き抜けるんだよ。そいつらが議員になるときに来る。だから議員が、その職員にめっちゃパワハラして。もっと言うと、国会議員って、それを地方議員を抱える。そういう地方議員たちと一緒に仕事してんだよね。めちゃくちゃ面白かった。

あれとスクールカーストめっちゃ関係あるけど。だからPTAに、もしスクールカーストの感覚がそのまま持ち上がるんだとしたら、PTAという組織はもう何の役にも立たない。子供たちにとって、そんなものを見せるのは、良くない。良くない。
だから早いとこ、壊したいって思う。正直な、アウトカースト的な親の感覚かな。なんだよこれ?

この場合は、うちの子のカーストの姿を見たカーストの学校の中で、このカーストがあるその親たちのその子たちがいて、そこに向かう人がもちろんできてて、カーストの中に、カーストなんかに入れたくない、うちの子どもを行かせなきゃいけないっていう親の気持ち。

というか、ふざけんなよ! だから、だから役員やってやろうって思ったし、嫌だ。
でもこれ、カースト組織を運営してる連中からみると、ものすごい拒否だよね。イジメして、やっと委員とかになって、こっち行けるか! 逆に、やっと役員になって、こっち行けるようになったんだよ! みたいに。

NS
はい。そうっすね。そうなると、スクールカーストを壊しちゃうと、別のところで同じ事が、やっぱり生まれたりするんですかね?

階層からネットワークへ

JO
そうそう。起きる。だからもう、「組織を作らない」っていうのが、実は一番一番よくて。被害者を生まない。だから組織化しない。保護者会というか、もうそんなんだろ? それこそ全員、保護者会全員、だって保護者だから。

NA
階層からネットワーク組織? ってどうでしょう? 最近はあんまり、「連合会」とか「県連」とか「全国」とか言わないじゃない? どちらかと言うと、「何とかネットワーク」を好む。あんまりその階層性を強調しない。事務局、持ち回りだったりして。全然フラットで、くっつけるとこだけくっついて。

JO
今日これを勉強して、一番思ってるのは、俺、どういうふうに、幼稚園のPTA変えようかな?
と思ってたんだけど。もう、そうしようって、「確信的なの」があって。4月に事務局を作ったら、「何かやりたいことある人?」と聞いちゃって、意見が出たらそれに向けて、何か組み換えましょうねっていうのを作って、あとはもう全部、それこそSNSの友人繋がりみたいな、全員フラットな状況でやりたい。

ただ事務局は、「今年は誰々さんがやってくれるんで」「これは別にお手伝いをした結果くださいよ」みたいな方法に変えようと確信した。それでやってみよう、来年。うまくいくかどうか、わからないけど、確信したから。

それができればいい。小学校にも波及してくれたなと思って。ここの場合は小中幼稚園が1個の組織になってもいいなと思ってて。うまいこといかないかな。
もうなんか任意団体から全てやめる。連合会なんていうものに、「入ってください!」って言われても、言われているわけでもないのに、入る必要ない。

どうか来てくださいって言われれば、考えてやってもいいという立場。何だろうな。「入るのは、お前ら当たり前だな」みたいなじゃない組織に、何か足かせ付けられる必要もないし、お金払う必要ない。

KO
下部組織ではないですし。

JO
対等の立場なのに、「なんで上から言ってんだ?」っていう感じかな。

PTAの非合理とケアの倫理

NA
概ね、俺もそう思うんすけど。ちょっと1個だけ、考えたいことがあります。それがこの本で言うところの、「専業ママディス」り。どちらかというと、この本だと「専業主婦ママ」を悪しざまに描いてる。「民主的手続き」もわからなければ、論理性も全然なくて、意味がわからない。

ですが、僕、この本のすごく嫌だなと思ったことは、「そういう人たちが、岡田さんのやり方を理解したんだ」っていう感覚になるわけです。
つまり、この人たちは民主主義の基本のキもわかってない。でも、こいつらに正論言ってもわかんないから、自分は実践を通してこの人に教えてあげた。つきましては、「この人たちは、民主主義が身体的に理解できるようになりました」っていう物語に、僕には聞こえる。それが、僕は、ものすごく嫌だなって思って。

なぜかというと、僕の頭の中で、「主体的な参加」とか「選んで参加する」ことに向かない人たちが、いろいろ決め、自分がこれを選んだから、こうしてこれをやるんだっていう、主体的な市民意識に依らない人々が、多分、「専業ママ」のところに顕著に現れてくると思ってる。なぜかというと、「子育て」。まず、子供って選んで生まれてくるわけじゃないじゃん。

だから、子供自体、「任意参加」とか「自由意志の選択」とか、そういうのがないわけで。否応なく生まれてきて、そのお母さん、お父さん、子供をケアする人は、任意とか自由じゃない。否応なくそれをやらされる立場に立つんです。それをずっとやってきた人にとって、「何かをやる」っていうことが、任意の意思決定であり、「やるって言ったからやる」っていうことではなくて、最初っから受動的なものとしてある。実は、この「否応なくやらされる」状況はかなりある。いわゆるケア、ケアをする人、ケアの倫理。つまり、ケアって基本そうじゃないすか?

病気になりたくてなった人なんていないから、否応なく、病気になった人が来るわけです。それに対して対応するだけ。基本的にケアは、やります! やりたいです!って言ってやることじゃない。だから、ケアをずっとやってる人に対して、「あなたのやりたいことなんですか?言ってください」と言っても、そんなこと考えたこともなかったから、そのままになる。そうじゃないですか?

結婚して、社会人経験があったとしても短くて、例えば25歳ぐらいで、出産して結婚して十数年ぐらい子ども育てたら、基本的には「やりたい」「その仕事を任してください」っていう経験はないですよ。だから、ずっと子供が泣いたら、「どうした?」と受動的に動く。その強制。任意ではなくて自由意志でもなくて、受動的、強制によるものを、ずっと繰り返してきた人たちの倫理感は存在する。それに対して、「自主的に参加するかしないか決めてやる」「やりたいんだったら、やりなさい」っ言う事。岡田さんが、おかしいわけです。そうできない人に対して、「あんたたち、頭おかしいな、民主主義の基本のキもわかってない」なんて言ってるんすけど、赤ちゃんって、そういうものじゃないんだよ。

参加するとか、しないとか、そういうレベルじゃなくて。もう、生まれてきた瞬間から全部が受動的なもの。20歳ぐらいになって、自立したときに、初めて社会参加する。そこで「私は、これがやりたいから、する」っていう。だから、専業ママが、運命的に、そのケアの倫理、そもそも子供を育てたり、悼む、病気の人を面倒見ることが、完全に受動的な振る舞いなんだっていう、その責任を引き受けることを、全くわかってない。

JO
やっぱり、ちょっと、そこにある男性的な視線に、違和感あるんだけど。モヤモヤ感はあったんだけど。でも何だろうな? 割とそれが日本の今のスタンダードで、男性年代のスタンダード。なんか、そこはそういうもんだと、読み進めちゃったけど。なんだろうな、確かにモヤモヤ感は残る。

NA
だとすると、「自分で、主体的な希望を持って、ボランタリーに参加する」という倫理じゃなくて、「子供がいるから、子供に世話しなければいけないんだ」っていう、要するに責任の論理、ケアの倫理、そこをベースにした・・・

でも、今のPTAが、それを理想的に体現してるとは言わないんです。僕は、そう思わない。
PTAが、あえて女性と言わずに「ケアする人」、子供の面倒を見るという受動的な世界、子供という存在がいて、否応なく、その面倒を見さされる倫理体系、男性であれ女性であれ、そういうこと続ける人達の組織の作り方って、何か発明できないのかな・・・?

「民主的手続き」でない種類の民主的実践

JO
なんか「民主主義」とか、そういうものから、もっとかけ離れた組織で。
例えば何だろうな? 何ら決定権を持たない組織。組織として決定権を持たない組織。
意思決定のための多数決だったりとかが出てきて・・・
何か、多数決とかで動く組織ではなくて、
「掃除しなきゃいけないよね?」
「うん。この日だから掃除しようね集まれる人は来て?」

NA
なりますよね、多分。
どちらかというと、そのケアする人たちって、そういうふうに物を見てると思うんです。

JO
だから、そういう組織にするべき。
あくまでも事務局は「4月に何やろう?」って言ったよね。
そのためには何が必要か、「話あった方がいいよね?」とか、「誰か担当した方がいいよね?」
これは別に強制じゃないから。でも、みんなが今やりたくないってなっちゃって。
何かその、意思決定を持たない組織みたいなものが、理想なんじゃないかな?
次の未来のPTAの理想なんじゃないかな? 意思決定持っちゃうと・・・

KO
そうですね、強制。

NA
これが面白いんだけど、やっぱり、子供たちを見てる人たち、あえて「女性」って言わないけど、子どもたちを見てる人たちの間に、何らか別の意思決定がある。でも、あんまり多数決とかやらなくて・・・

JO
ママカーストみたいな?

NA
カーストっていうと、なんか・・・

JO
パワーバランスみたいなの、ありますよね。女性の中、特有の。

NA
その中で、ポジティブなものを見つけられないか? つまり今って、岡田さんみたいな人は、いわゆる「民主主義」をめちゃくちゃ神聖視する。だから、「民主的プロセスができてる!」とか言うわけです。だけど多分、その、ママカースト的なものにも、陰湿なイジメみたいなものがあるものと、そうじゃなくて、不平等ながらも、お互いに助け合えるものが見いだせないか? わからないけど。

JO
そういうやつがある?
そこを踏み込むと、人権論になってくるんだけどね。
例えば、この地域でも、小作人もいれば、そうじゃない人もいる。元々ね、いろんな人がいて、例えば林業大きい組織、会社の人もいれば、ただの木こりの家もあれば、いろんな出身があって、出自の問題になってくる。ちょっと怖いんだけど、言及するのは恐ろしいな。僕は思うんだけど、僕は坊さん、だから平気言うけど、差別の中に地域は成り立っていて、その差別がママたちにも浸透するよ。

でも、生まれた時点で、あそこの家の子は、こうなりますねっていう。
なんだろうな。例えばうちの子だったら寺の子はそうなるし、なるほど、なんか神聖視されたりする。別に大したことない、ただのうちの子供だから、私は多分いいこともないし、だけど、「さすが寺のこや」って言われたりもしながら、そのおかげさまで、寺を継いでくれたりする。だけど、だから良い側面と悪い側面があって。それを否定しちゃうと、子供が継がなかったりするから、寺が続かなかったって。

すごく真剣に、僕は考えるよね。そういうのと同じような、力のバランスが各方面に地域にある。それは、一方で、その延長線上にあるのが部落差別であったり、同和差別であったりする。そういう差別問題が、あって人権問題になってくるから、ちょっと安易に踏み込める世界ではないんだけれども。僕は、ある程度それも勉強してきたので、ちょっと誤解を恐れず言えば、もうそれは変えられないから、どう変えていくかというと、もう新しい人が入るしかない。

僕みたいに外から来た人間は、組織の中にいないので、言いたいこと言って変えられるんだけど、それに賛同してくれない限り、変えられなくて、そこに難しさがある感じ。でもこれは田舎だからとか、都会だからとかじゃなくて、都会には都会に、同じようにある。

僕は目黒の生まれだけど、目黒の中でも、僕は、3代目だ。おじいちゃんから住み着いて。お神輿をお祭りで担ぐでしょ? 僕だけ一番前をさされる。「はい、ここここ、ぼっちゃん」って。町会の偉いさんが。一番目立つところに、僕一番前に立った。

それは、自然とそういうパワーバランスが地域の中に生まれたんです。うちのおじいちゃんが町会長やってたりするから。でも逆に言うと、その子は顔を知られちゃってるから、悪いことをできない。だから、その良い面と悪い面が、全ての物事にはあるんだなと感じる。でも、ママカースト的な、パワーバランスが、大いに組織に反映されちゃうのは、もう致し方ない。だから、それはもう組織とは関係ないとこでやるようにしないと、いけないんじゃないかな?

(終わり)